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茶の湯は、歴史もありますし、陶器、漆器などの文化の固まりですよね。わかるところから調べていきたいと思います。
1.栄西禅師(えいさいぜんじ)
お茶は、奈良、平安時代、遣唐使などによって中国から日本に伝えられ、貴族や僧侶などの間で盛んに楽しまれました。しかし、894年菅原道真により遣唐便が廃止されると途絶えてしまいます。(「はくしに戻す遣唐使」っておぼえましたね〜♪)
平安末期になると中国との往来が再開され、栄西禅師(えいさいぜんじ)が1191年、宗(当時の中国)より茶の種や点茶に使用する器具を携え、点茶の作法を修得して帰朝しました。
1191年というと、「いいくに作ろう鎌倉幕府」、の前の年です。世の中がひっくり返るような混乱の中で持ち帰ったんですね。
栄西が3代将軍源実朝にお茶を献上してから、喫茶は武家の間でも盛んに行われるようになり、南北朝時代にはこの風習が一般にも広く流行するようになりました。栄西は禅宗を日本に伝え、臨済宗を開いたことで知られますが、『喫茶養生記』を著し、茶の薬効を説き、喫茶の儀礼を定着させました。
お茶は、もともと禅宗と一緒に始まったんですね。
ところで、「喫茶」という言葉、時代劇では聞いたことがないので、てっきり文明開化の頃からと思っていました。初めからあったんですね。
やさしい茶の湯入門 成井宗歌 著 葛煢社刊
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) を参考、引用しました。
2.闘茶
禅宗と一緒に始まり薬や儀礼として始まったお茶ですが、茶会はだんだん、産地の違う何種類かのお茶を飲み分けて、茶の品質の優劣を競って勝負を争い賞品を賭ける「闘茶」とよばれる賭事になっていきました。
この「闘茶」は、鎌倉末期に宋より輸入され、南北朝・室町時代に流行します。このため、国内でのお茶の生産量は増加し、お茶を飲む習慣は定着していきます。同じころ、一部上流社会では「唐様の茶」と称して茶味を賞し、唐物器物を鑑賞する茶会が行われます。現代でも最上位にランクされる唐物の名物群「東山御物」は足利義教から義政の時代に集大成されたものです。つまり、15世紀には唐物名物を飾るための建物と方式が組み立てられ、将軍の同朋衆によって書院台子の茶が始まっていったのです。
やさしい茶の湯入門 成井宗歌 著 葛煢社刊
1988/国語大辞典(新装版)小学館
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) を参考、引用しました。
3.村田珠光(じゅこう)
15世紀後半になると一般庶民にもお茶が楽しまれていきます。
村田珠光(1423〜1502)は、 戦国期の茶人で、わび茶の開祖で、それまでの唐物中心のおごそかなお茶でなく、和物も唐物に調和させて楽しんでいこうというお茶で、四畳半茶室を創案しました。
珠光は、奈良の出身で、はじめは僧でしたが、寺を追放され諸国をながれあるき、京都にでて茶人となり能阿弥(のうあみ)や一休と親しくなりました。
能阿弥(1397〜1471)は、室町中期、銀閣寺を建てた足利義政につかえた同朋衆のひとりで、将軍家伝来の書画の管理が本来の仕事でしたが、絵を描いたり、書画の鑑定、表装、座敷飾りの指導、連歌、香道など幕府関係の芸能全般に幅広く活躍しています。
珠光は、能阿弥から、立花(たてはな)〜お花の生け方〜をまなび、唐物数寄(からものすき)を知って和物に対する美意識をひらき、侘茶を工夫するきっかけとなりました。さて、一休さんといえば、とんち話ですが、大河ドラマ「花の乱」で奥田瑛二がやってましたね。結構、汚くて(失礼!)自由な方でした。
この一休さんについた珠光は、禅の修行をはじめ、「仏法も茶の湯の中にあり」とする茶の湯に禅の精神を加えた茶禅一味の新境地をひらき、物はなくとも心の豊かさでおぎなおうとする独自の侘茶の精神を確立ました。新境地といっても、栄西禅師が始めた頃のお茶に戻ったと言うことですね。ひとよむなしい(1467)応仁の乱以後の物のない時代に、禅のお茶は受け入れられたのでしょうね。(...つづく)
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) を参考、引用しました。
4.珠光のいねむり
さて、茶の湯の始祖、村田珠光(1423〜1502)は、 座禅をしているとついつい眠くなってしまうのでいろいろな工夫をしました。壁に、師 一休から授かった一句を掛け、香を炊き、花を入れ、釜に湯をわかし、茶器を供えて、眠くなると、お茶をのんでは座禅を続けました。これが現在に続く茶の湯の始まりといわれています。なんだか身近に感じますね。(^^)
珠光さんの住んでいたところは、奈良の「称名寺」で今はお寺になっていて、茶道発祥の地と言われてます。珠光さんがいねむりをこらえた場所、一度行ってみたいですね。(...つづく)
5.武野紹鴎(たけのじょうおう)
千利休の師である武野紹鴎(1502〜55)は、戦国時代の茶人です。堺(大阪府堺市)の豪商の子として生まれ、三条西実隆に学び、連歌に深く傾倒していました。
わび茶の開祖村田珠光の亡くなった1502年に生まれた紹鴎は、生まれ変わりと思ったかどうかわかりませんが、珠光をしたってその茶風をつぎ、さらに道具の中に生地で工夫した新しい道具を作り、茶の湯の簡素化につとめました。
その中でも、茶杓はそれまで中国から伝わったように象牙の物が使われていましたが、紹鴎がその形を模して竹を削ってから、竹の茶杓が使われるようになりました。その一方で財力を背景に、茶室大黒庵をかまえて数十種類の名物道具を集めたりしました。弟子に千利休をはじめ、女婿の今井宗久(豪商、大河ドラマにもよくでてきますね)がいます。
紹鴎の茶は、三条西実隆にまなんだ和歌の世界を具体的にあらわそうとするもので、藤原定家の「見渡せば花も紅葉(もみじ)もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮」の歌を、茶の湯の侘びの心としました。
6.今井宗久(いまいそうきゅう)
天下三宗匠の一人、今井宗久(1520〜93)は、茶人というよりも豪商として有名ですね。大河ドラマにもよく登場します。
出身は近江(おうみ)国の今井とも、大和国の今井ともいいますが、青年期に和泉国堺(大阪府堺市)へでて倉庫、金融業をいとなみ、薬種、鉄砲、火薬などの製造と販売で成功する一方、前回特集した武野紹鴎に茶の湯をまなび、その娘婿となって、堺の会合衆に名をつらねました。
1568年(永禄11)に織田信長が上洛すると、紹鴎伝来の名物茶器を献上するなど、いちはやく信長に接近。信長のもとで、堺の代官、淀川の持ち船の関銭免除、銀山の経営、鉄砲鍛冶(かじ)の差配など、多くの権益をあたえられ、政商として活躍しました。また、千利休や津田宗及(そうぎゅう)とともに信長の茶頭(さどう)となり、天下三宗匠とよばれましたが、利休と宗及は宗久の計らいでとりたてられたといわれています。
本能寺の変(1582)後も三宗匠の筆頭として羽柴(豊臣)秀吉につかえましたが、本願寺(→ 浄土真宗)との密接な関係や、利休のように近侍していなかったこと、茶の湯の好みがあわなかったことなどにより、1587年(天正15)の北野大茶湯のころから秀吉にしだいにうとんじられるようになりました。
"今井宗久" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia (C) を参考、引用しました。
7.千利休 (せんのりきゅう)茶の湯といえば、利休。安土桃山時代の茶人で千家流茶の湯の開祖です。今年の大河ドラマでは、古谷一行が演じてますね。
勅使河原監督の映画「利休」では、三国連太郎が落ち着いて演じてました。利休の庭の朝顔がきれいだというので、秀吉が見に来たら、すべて摘まれていて、茶室の花器に一輪だけ生けてあった、というエピソードが印象的でした。さて、その利休ですが、1522年の生まれですから、今井宗久より、2歳若いです。
堺(大阪府堺市)の豪商の出身で、千宗易(そうえき)と号し、武野紹鴎について茶の湯をまなび、織田信長・豊臣秀吉につかえて今井宗久、津田宗及とともに茶頭(さどう:茶の湯の師匠)となりました。とくに秀吉には重用され、たんなる茶頭という地位をこえて、秀吉の弟秀長とともに、側近として秀吉の政治に深くかかわりました。
1585年(天正13)、秀吉が関白就任を記念しておこなった皇居での茶会では、天皇から利休の居士(こじ)号をあたえられて秀吉の後見をつとめます。また、87年の秀吉による全国統一を誇示した有名な北野大茶湯では、中心になって会を演出し、茶の湯の最盛期をきずきました。しかし1589年、秀吉の怒りにふれて堺で蟄居(ちっきょ)、ついで死を命じられました。
その罪状は、利休の亡父の50年忌に大徳寺山門を修築した際、そこに自分の木像を安置したこと、不当な値段で茶器を売買したことなどとされましたが、実際には朝鮮出兵に反対したとか、堺よりも博多商人を秀吉が大事にしたとか、政治的なことといわれています。利休は、はれの儀式としての書院台子のお茶を知りつつ、侘茶(わびちゃ)を大成して、それまでの名物中心の茶の湯に対して待庵(たいあん)に代表される草庵の茶室を考案しました。
また、茶の湯では、花入や茶筅(ちゃせん)、茶杓(ちゃしゃく)など竹工品が数多くもちいられますが、千利休は、みずからつくった竹花入を茶事の構成にくみこみました。 このように茶会の形式や作法、道具にいたるまで独創的な工夫をこらし、また禅の精神を茶の湯にとりいれました。
弟子に古田織部、細川忠興、山上宗二らがいます。
"千利休" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia (C) を参考、引用しました。
8.古田織部 (ふるたおりべ)
利休の弟子で、利休七哲のひとり古田織部は、1544年美濃に生まれました。
織田信長、豊臣秀吉につかえ、1585年(天正13)織部正となり、山城に3万5000石をあたえられました。利休と違って武士だったんですね。
87年の九州攻め、90年の小田原攻めにしたがい、秀吉の死後は家督を子の重広にゆずって隠居し、茶の湯に没頭しました。師匠の利休が堺に蟄居(ちっきょ)を命じられたとき細川三斎(忠興)とともに淀でみおくったことは有名です。利休の死後は織部流として一流をなして大名茶を確立、小堀遠州や二代将軍、徳川秀忠らに教えました。
1614年(慶長19)の大坂冬の陣で東軍にくわわりますが、夏の陣後、大坂方に通じた容疑で、子の重広とともに死を命じられました。その真相は不明です。茶の湯で「オリベ」といえば、緑色のお茶碗を言いますね。
織部は、懐石道具に焼き物(向こう付け、鉢類)を導入し、歪み茶碗を創造、また茶室の形態や意匠に独特の才能を発揮しました。"古田織部" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia (C) を参考、引用しました。
8.小堀遠州 (こぼりえんしゅう)小堀遠州というと、造園の方で有名ですね。1606年に後陽成院御所の作事奉行をつとめて以降、禁裏、伏見城本丸書院、二条城、仙洞御所、駿府城、江戸城内山里などの建設や造園にも多く関わりました。
遠州の造園は、それまでにみられなかった大胆な直線をとりいれたのが特徴で、ただ、残念ながら、現在造園でのこっているものは少なく、仙洞御所の南池一部、二条城二の丸庭園、南禅寺塔頭(たっちゅう)金地院(こんちいん)庭園、大徳寺塔頭孤篷庵庭園が現在、確実に彼の手によるものとされています。さて、茶の湯は、最初父から手ほどきをうけ、やがて古田織部にまなびました。1606年ごろ、織部に茶の湯について質問した記録書である「慶長御尋書」が伝存しています。
遠州は、各種の作事を通じ、また伏見奉行として宮廷文化と接触する中でその名を知られていき、15年に織部が切腹させられると、大名茶の指導者としてあおがれるようになりました。
多くの大名茶人を指導しましたが、36年(寛永13)には作事奉行をつとめた品川御殿で 3代将軍徳川家光に茶頭(さどう)として献茶し、将軍家茶道指南とみとめられるにいたりました。遠州の茶風は「きれいさび」とよばれ、さまざまな伝統文化の統合による洗練された優美さを追求しました。そのために遠州七窯(なながま)とよばれる国焼き茶器をつくらせ、その振興をはかる一方、自分の好みにあう茶器をさがしもとめます。遠州の鑑識眼によってえらばれた名物(めいぶつ:茶道具の名品)は中興名物とよばれています。
このように、遠州のお茶は、明るさと優美さ、華やかさが目立ってきますが、その一方で茶本来の自由と独創性を失い、次第に形式的になっていきます。
"小堀遠州" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia を参考、引用しました。
9.家元制度の成立
千利休の孫宗旦(そうたん)は、江戸時代になり、千家の再興を許されます。その後、千家は表千家・裏千家・武者小路千家の三千家にわけられ、それぞれ茶家として独立しました。
江戸中期、表千家7代如心斎宗左と裏千家8代又玄斎宗室らによって、時代に対応した新しい稽古(けいこ)の方法「七事式(しちじしき)」が制定され、大勢の門人を一度におしえる方向、広間での教授へとあらためられました。そして、職業として茶をおしえる師匠と門弟の組成など、今日の家元制度のもとがつくられ、茶の湯も茶道(ちゃどう)という呼称が定着してきます。
また、両家から分離独立した茶家、江戸千家・速水家・松尾家なども流派として活動し、公家・武家・町衆とさまざまな層の門人をかかえ、さらに地方へとひろがっていきました。
人口の増加にともなって伝書や稽古の教本などが木版ですられましたが、茶の湯自体は、幕末・明治維新の変動期に衰退しました。大正から昭和にかけて、女子の教養として茶道がみなおされ、急速に女性の茶人をふやします。
第二次世界大戦後もこの傾向はかわらず、今日みられるように茶道は女性の文化となりました。"茶の湯" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia を参考、引用しました。
茶の湯物語は、歴史編は、今回で終了します。長い間のご購読ありがとうございました。
●参考
やさしい茶の湯入門 成井宗歌 著 葛煢社刊
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