■ 浅間神社 七不思議 ■

七不思議


1.四方走りの馬

馬を描いた絵馬から、毎夜馬が抜け出て四方を走り田畑を荒らすので一筆加え、つないでしまったと伝えられます。奉納された絵馬は、現在、境内の文化財資料館に展示ざれています。

●絵馬 (えま) とは、神社やお寺に、祈願や報謝(祈願成就のお礼)のために馬などをえがいて奉納する絵のことです。
先日、北野天満宮へ行って来ましたが、たくさんの絵馬が奉納されていました。読んでみるとなかなか楽しいですよね。

起源は、古代のお祭りや雨乞いなどの際に、神に生きた馬を神馬(しんめ)として奉納したことにあります。その後、木製や土製の馬形もそれにかわって奉納されるようになり、ついで板にえがいた馬、すなわち絵馬があらわれました。
現存する最古の絵馬は、奈良県の当麻(たいま)寺曼荼羅(まんだら)堂から発見された鎌倉時代のものですが、1012年(寛弘9)に大江匡衡(おおえのまさひら)が北野天神に奉納した品々の目録にも「色紙絵馬三疋(びき)」とあるように、平安中期にはえがかれていました。

"絵馬" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) より引用しました。


浅間神社七不思議 ーつ石2.ーつ石

神社の周りに水路があり、この底に面したところが、一つ石(一段)となっています。

水路は、安倍川の上流方向より流れていますが、そのまま海の方向へは流れずに、神社のまわりを流れて元来た方向へと流れます。石よりもこの流れの方が不思議な感じがします。


3.山上の不思議

麓山神社に至る参道に「鳴石」という岩があり、岩の手前を足で踏みつけると不思議な音がするといわれています。

「山上」というので、百段を登ったところから、麓山神社の間までの参道のようですが、残念ながらどの石かは、わかりませんでした。

この参道は、春に行くと桜がとてもきれいです。ぜひ、探してみて下さい。


4.水飲み龍

左甚五郎の作と伝える龍の彫刻は安永の火災のとき、池に下りて水を吐いて御殿にかけたと伝えられています。

なんと家光公による寛永の大造営の社殿は、安永2年(1773年)・天明8年(1788年)の二度の火災で全焼してしまったんですね。この時代は、静岡県相良町の田沼意次が、安永元年、老中になり、天明6年に罷免されています。同じ静岡県の話、関係あるんでしょうか?

さて、現在の社殿は徳川幕府により文化元年(1804年) から慶応元年(1865年) までの約60年の歳月と10万両(今の三百数十億円)の費用をかけて、寛永時代同様の社殿を再現しました。

文化元年は、いわゆる化政文化の幕開けで、十返舎一九の東海道中膝栗毛や歌麿が活躍しています。このころは社会不安の増大、外国船の接近など対外危機によって幕藩体制は解体しつつありましたが、文化は爛熟期をむかえています。このにぎやかな時代から、慶応元年という明治維新の3年前という幕府にとっては大変な時代に浅間神社は、再建されました。
また、60年という長い年月かかりましたので、職人も何代にも渡って住み着き、現在の木工や漆器、蒔絵の伝統工芸の元になっています。
なお、「駿河竹千筋細工」の始まりといわれる、岡崎の藩士、菅沼一我が技術を教えたのが、天保11年(1840年)ですから、ちょうどこの時期、腕の良い職人が多く住み着いていたときなんですね。

「駿河竹千筋細工」の由来



5.叶馬

左甚五郎の作といわれており、安永の火災のおり、二頭の神馬(木の馬)は三保の明神へ逃げ、一頭はそのまま残り一頭は戻ってきたとの話が残されています。


左甚五郎 ひだりじんごろう (生没年不詳)Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. より

左甚五郎といえば、落語でも有名な江戸時代に彫刻の名人とたたえられた人物ですね。
日光東照宮の眠り猫、上野寛永寺の竜などが有名ですが、実は浅間神社をはじめ、全国各地に甚五郎作という彫刻がのこされていますが、調べてみると、安土桃山時代〜江戸時代全般にわたり、実在の人物であったかどうかもはっきりしていないそうです。

江戸前期には、「京都北野天満宮の透彫(すかしぼり)、豊国神社の竜の彫り物で、左の手で上手に細工した。」という文献が残っていて、すでに甚五郎伝承が生まれていました。
安土桃山時代〜江戸前期に、権力者の廟(びょう)や高名な社寺にすぐれた彫刻がみられるようになったため、その技法をたたえる名工の逸話が生まれ、その後も各地の社寺に彫刻が多くもちいられるようになると、そうした名工の話がさまざまな人物のエピソードをとりこみながら、左甚五郎伝承として各地につたわっていったと考えられています。

左甚五郎のいろいろな伝説につきましては、こちらもご覧下さい。 http://www2.ocn.ne.jp/~k-plan/k5-1-04.html



6.八万にらみの龍

浅間神社大拝殿大拝殿天井絵、狩野栄信(1775−1828)の画で畳六帖の墨絵の龍、どこから見ても龍がにらみ返します。

2004年 静岡浅間神社の廿日会祭(はつかえさい)の中で、お祓いを、受けてきましたよ。
地元にいながらはじめてはいる大拝殿! うわさの天井絵も見てきました。
さすがに勢いのある絵でした!

もともと駿河の職人は、浅間神社再建のため、全国から集められた腕利きの職人が住み着いたことが始まりといわれていますので、私達とはとても縁が深いんですよね。

これからも駿河の伝統工芸を力強く見守って欲しいですね!

なお、小布施の岩松院(がんしょういん)で北斎の天井画も有名ですね。

大拝殿には、結婚式や七五三、いろいろなご祈祷などで入ることができます。機会がありましたらご覧下さい。


狩野派(かのうは)Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) より

狩野派は、室町中期から明治初期までつづいた日本最大の画派です。
おもに血縁関係によって画系が継承され、周辺には多くの弟子たちを輩出しました。

●室町・桃山時代の狩野派
始祖正信から永徳をへて光信・孝信までで、中国の宋・元・明の絵画から伝統的なやまと絵まで、さまざまな技法や画題に精通していました。
花鳥画、人物画、山水画、風俗画などすべての分野において、彼らは桃山画壇のリーダー的存在であり、折からの大建築ブームに際して、工房の画人を組織して多くの障壁画を制作しましたが、宮廷や寺社など特定の権力者に従属することなく、社会的に独立した専門絵師集団として活動した点でも画期的でした。
特に永徳・光信親子は、信長の安土城、秀吉の大阪城、聚楽第などの障壁画を作成しました。

●江戸時代の狩野派
前期狩野派のあり方を一変したのは孝信の子、探幽です。彼は徳川幕府の御用絵師となって京都から江戸城下にうつりすみ、画法を新時代の趣味にあう瀟洒(しょうしゃ)なものにかえて、徳川幕府の意向にそった絵画をえがくようにつとめ、また狩野派の画法の整理と普及に先鞭をつけました。
江戸時代には幕府御用絵師を頂点に、各大名のお抱え絵師や市井(しせい)で活動した門人など、多くの狩野派画人が絵筆をふるいました。彼らは同時に学画機関としての役割をはたし、幕末の狩野派からは、明治初期の画壇で活躍する狩野芳崖や橋本雅邦を生みだしました。


江戸幕府の浅間神社建築には当然ながら、御用絵師として参加したんですね。

静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:狩野 栄信】


7..鳴きうずら

信州諏訪の名工二代目立川和四郎富昌の彫った“栗穂にうずら"は優れた彫刻として知られており、あまりに生き生きとしていることから、そのうずらが鳴いたと伝えられます。

本殿に飾られていますが、この本殿に入るのが実は大変なんです。
浅間神社として紹介されるのは大拝殿が多く、ほんとの本殿はその後ろにあります。通常は公開されていません。2000年と2001年の秋、3日間だけ公開されたのを見てきました。巫女さんがぴったり横に張りついて嬉しかったのですが(笑)、写真はもちろん撮れません。外から取ったのですが、よくわかりませんよね。

さて、二代目立川和四郎富昌(1782〜1856)ですが、諏訪の宮大工・立川流の二代目で、「諏訪の和四郎」の名で知られる名匠です。
その腕は初代富棟より優れているといわれ、 その作品は浅間神社をはじめ、長野、諏訪、伊那から横須賀の三熊神社、 三河の豊川稲荷などの神社、また亀崎潮干祭の力神車と花王車、上半田祭の福神車、高山祭の五台山などの山車(だし)があります。

榛原町石雲院の龍門の滝の彫刻

東海の山車祭り〜生き続ける19世紀の都市文化


「浅間神社 七不思議」は、今回で終了します。

3代将軍徳川家光が作ったものとばかり思っていた「浅間神社」が実は焼失して、幕末に建てられていたのにはびっくりしました。
でも、静岡の伝統工芸のルーツが、350年前より、150年前にあったと言うことは、少しがっかりもしましたが、納得もしました。

350年前、数年で作られた浅間神社では、腕の良い職人がその後どこかに行ってしまってもおかしくありませんが、150年前の幕末の混乱期に60年の歳月と大金をかけて作られたのでしたら、当然何代にも渡って住み込みで作っていたのですから、その後も残っていても当然ですね。



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