ぶらり技めぐり〜駿河竹千筋細工(静岡) 指の感触を頼りに
幼いころの夏休み。祖父はよく竹を削って、小さな虫篭を組み立ててくれた。「カブトムシを入れたい。クワガタも欲しいなあ」。
胸をときめかせた遠い昔…・・・懐かしさを覚えながら、静岡市の駿河竹千筋細工職人、黒田英一さん(71)を訪ねた。焼けつくような日差しが降り注ぐ静岡駅前。ロータリーの竹林も心なしか元気がない。「竹工房はなぶさ」は市街地の北西、安倍川の近くにあった。6畳ほどの板の間。黒田さんは座布団に正座して、竹ひごの束を静かに曲げていた。手とやっとこと電気ごて。指先でしなり具合を確かめるようにゆっくりと。まっすぐなひごがゆるやかに曲線を描いていく。
太さは約1ミリ。畳の幅(約90cm)に千本並ぶほど細いことから「千筋」と呼ばれるようになったという。
扇風機が音をたてて回っている。「やけどすることもあるが、手袋はしません。指の感触が頼りだから」。曲線となったひごは、竹の枠と細み合わされ、花器、虫かご、行灯(あんどん).....時にはフロアスタンドや衝立などに生まれ変わる。
「アイデアはいろんな所に転がっていますよ」。散歩の途中。旅先。場所は問わない。「デパートの前で波打ったような模様の敷石を見て、波型のフロアスタンドを作ったこともあります」
指物師や蒔絵師、漆塗り師などが多い職人町に生まれた。父は漆塗り職人だった。16歳で千筋細工職人の叔父の下に弟子入り。22歳で独り立ちした。「周りはみんな職人だから、抵抗感はありませんでした」
当時、製品の多くはアメリカに輸出されていた。1873年のウィーン国際博覧会で脚光を浴びて以来、繊細な美しさが外国人に受けてきた。「行灯がよく売れました。30代は仕事がなくて困るようなことはなかったね」
しかし、1971年のドルショックを契機に、冬の時代に。国内で人気の電灯の笠もプラスチックや塩化ビニルの製品に押され始めた。
「問屋がバタバタとつぶれ、職人の大半がやめていきました」。静岡と清水に約120人いた職人は約半分になった。「やめる気のない私は、母と妻の3人で製品を作り続けた。『いつになったら休めるの』と妻に反抗されたこともある」
76年11月の組合発足後、復活の兆しをみせた。竹そのもののようにしなやかに。作品展などでPRすると、売れ行きが上向きだした。「問屋に頼らず、職人自ら消費者を意識した製品作りに取り組んだのが良かったと思う」10年前には後継者ができた。長男雅年さん(43)だ。「職人としてはまだまだ」という一方で、「私にはない、いいセンスを持っているよ」と目を細める。いま、来年の新作展の準備中だ。「誰もやったことのない新しいのを作りたいね。同業者はみんなライバルだよ」
(文・佐藤昭仁、撮影・X島夕子)
上画像 竹ひごを電気ごてで曲げる黒田英一さん。下絵や設計図は書かない。頭の中のイメージをもとに組み立てるという=静岡市葵区田町で
朝日新聞 2002年8月31日 より引用しました。
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