2007年.4月、地方自治体や産業振興、教育などさまざまな分野で努力してきた人に贈られる春の叙勲が発表されました。
静岡県内では、90名、職人としてはただ一人、黒田英一が選ばれました。
静岡県内にお住まいの方で、駿河竹千筋細工に興味がある方、4月29日の朝刊や、朝のローカルニュースをご覧になって、びっくりなされたのではないでしょうか?今年の春の叙勲、静岡県内からは、90人が選ばれましたが、その中でただ一人、職人として、私の父、黒田英一が選ばれました。
今まで、数多くの賞、表彰をいただいている、黒田英一ですが、今回は、格別のようです。
今回の叙勲は、黒田英一、一人の力ではなく、理事長時代、伝統工芸の普及活動を、組合員皆さんと協力して行ったことが、認められたことと思い、組合員の代表としていただいて来たいと、申しています。
また、みなさまの応援あればこそ、ここまでやってこれたと思います。ありがとうございました。m(_ _)m5月9日には、皇居へ行って、天皇陛下に拝謁して来ます。
以前、匠宿で、天皇陛下の御前で、実演したことがありますが、皇居へ入るのは、はじめてです。
それまで、何事もないように、気を引き締めています。それにしても、職人としていただくのは、珍しいことなのか、テレビではNHKさん、第一テレビさん、新聞では、静岡新聞さん、朝日新聞さん、毎日新聞さん、産経新聞さんに来ていただき、かなり大きく紙面をさいていただきました。
こうして、取り上げていただくことが、本当に励みになり、76歳になりますがまだまだ新作に取りかかっています。
これからも応援よろしくお願いします。
虫かごや菓子器など、江戸時代から駿府に伝わる竹細工「駿河竹千筋細工」の職人として、60年歩んできた。制作を続ける傍ら、伝統の継承にも力を入れる。繊維に沿って割った竹を、電熱ごてに押し当てて曲げる。できあがった枠に、直径1ミリほどの穴を等間隔であけ、穴と同じ細さに削った竹ひごを格子状にはめ込んでいく。
上下の枠やひごに少しでもゆがみがあると、透かして見た時に、こちら側と向こう側の線がきれいに重ならない。「お客さんの目は厳しい。『高じ曲線』を作るのは、いくつになっても難しいです」と話す。16歳で叔父に弟子入りし、22歳で独立。当初は欧米への輸出も多く、問屋からの注文が絶えなかったという。経済成長や円高が進み、安価な外国製品が出回り始めると、需要は徐々に縮小した。
独創的な物づくりを始めたのは、駿河竹千筋細工が国の伝統的工芸品に指定された76年以降だ。
日常の中にある風景や物の形をヒントに、波形の照明を作ったり、上部が帽子のつばのように広がった円筒状の花器を作ってみたり。最近は、厨子や新しい編み方にも挑戦している。
「常に時代に合わせた新しい物を作っていかないと、伝統もなくなってしまうからね」。知る人が増えるようにと、国内外での実演や、公民館などでの講師活動も続けている。
「おれは職人だから」と、作品に名前は彫らない。「後の人がいつか作品を見て、昔の人がこういう物を作ったんだと思ってくれたらうれしいね」 (鈴木彩子)
子供たちに竹細工の魅力伝える 産経新聞 2007年4月29日掲載 引用
丸ひごを使った独特な技法で、花器や虫かご、あんどんー。図の伝統的エ芸品に指定されている静岡市の竹細工「駿河竹千筋細工」を、60年以上にわたって製作している。現在は、仕事のuかたわら同市駿河区の「駿府匠宿」などで竹細工教室を開き、希望者への指導も行う。16だった昭和22年、疎開.先から地元の静岡市に戻った。「とにかく手に職を付けよう」と、叔父に弟子入り。5年後に独立して以来、この道一筋でやってきた。竹を熱したコテにあてて微妙に成形していく。角度の付け方を誤ると、作品全体に影響が及ぶ。
しばらく、主に海外への輸出品や土産品を作っていたが「作品も伝統的なものを作るだけで、地元では知らない人も多かった」という反省から、職人同士の横の連携をとり、技術の向上や独自の作品作りを目指して、50年に仲間と協同組合を設立。展示会を開催し、地元のお客の反応を見ていると、「新しいものを作ろう」と視線が変わり、以来、独創的な作品作りに励んだ功績などが認められた。
「生活のために始めた仕事だけど、地道に続けてよかった」
現在は、子供たちの前で竹細工の実演を披露するのが一番の楽しみだという。「子供のころ、自分で木を削って飛行機なんかの模型を作って遊んだ。そんな素朴なものづくりの魅力を、子供たちに伝えたい」と、少年のように目を輝かせた。(三品貴志)
竹千筋細工の伝統守って60年 毎日新聞 2007年4月29日掲載 引用
60年に渡り駿河竹千筋細工の伝統を守ってきた。主に竹ひごを使って花器や虫かご、お盆などを製造する。工芸品で生計を立てていくのは大変だが、「受章は業界を守ってきたみんなの功績」と謙虚に喜びを語る。
16歳で竹細工の道に入った。「手に職を付けよう」というのが理由だった。将来は独立しようと思い、必死になって技術を磨いた。反り返った親指と、骨が出て形が変わった中指。手は職人としての苦労や生き様を物語っている。
かつて多くいた職人の数は時代の流れでめっきり減った。それでも長男の雄年さん(48歳)が後を継いでいる姿を見て「うれしいですね」と目を細める。仕事への情熱と創作意欲はまだ衰えていない。「あの世にいくまでやりますよ」。力強い言葉に生涯現役を貫く決意がにじんだ。(田口雅士)
新しい形へ挑戦忘れず 静岡新聞 2007年4月29日掲載 引用
職人がこんな章をいただけるとはゆめゆめ思いませんでした。おじの誘いで竹細工の道に入って六十年。周りの人の支えがあってこそ、続けることができました。「辛抱する木に花が咲く」という母の言葉を胸に、花器や盆などを手掛けてきました。天皇、皇后両陛下の前での実演は一生、心に残るでしょう。常に新しい形にチャレンジする気持ちが大切。お客様に喜んでもらえる作品を作り続けます。
16才より竹細工一筋にもうすぐ60年。確かな技術とシンプルなデザインで人気があります。 略歴 2002年、静岡伝統産業工芸展 静岡市議会議長賞 現在、静岡県伝統工芸士会会長。
新しい技術求め続ける○伝統工芸など視察 子供らにお言葉も○伝統工芸士 黒田英一 私の竹細工 |