伝統工芸士 黒田英一 私の竹細工

私の家は、私が生れる前より、静岡の竹細工職人さんの作品に、漆を塗って仕上げる仕事をしていました。学校から帰宅すると、いつも一階の作業所では、母と叔母が竹細工の下地をしており、二階では、父と叔父が漆を塗り、仕上をしているのでした。
又、母の実奏では祖父叔父等が竹細工を作っておりました。そして、家の隣近所では、木工所、塗装所、金具製造等があり、いわゆる職人町でしたので、物造りには自然に関心をもって育ったように思います。

父が昭和18年に亡くなり、叔父等も兵隊となり、昭和20年6月19日の静岡空襲でなにもかも無くなってしまいました。
昭和22年、疎開先より叔父の家の近くに住むことになり、何のためらいもなく、叔父杉山猛の元に修業に入りました。
当時、四人弟子が居り、年令も私と二つ三つ年上の人と、同じ年の人が二人ずついました。
一、二年私より先輩の彼等は皆偉く見えたもので、特に二才年上の彼の仕事は手早く器用にこなすので、私の無器用さが目立ち心配でした。
とにかく、手間がかかっても一人前にならなくてはと、仕事が終ってからも家に竹を持ち帰り、小刃の使い方、研ぎ方等訓練したものです。

22歳の夏、師である叔父より「独立してやってみるか」と年明のゆるしを頂き、言葉に表わせない程の喜びと、責任を感じました。
師からの注文の品をしっかりと作ろう.師にほめてもらえる様な仕事をしよう そればかりを思い続けて四、五年が過ぎました。27才で結婚した後、私も内弟を三人置くようになりました。当時は、輸出に、内地の照明関係にと、業界全体が最盛期だったのです。
特にアメリカでは竹の持つ繊細さが好まれ、戦前塗っていた漆をやめ、生地のままで菓子器、盆、あんどんなどが製造され輸出されるようになっていました。特に菓子器は、キャンディ・ボックスと言われ人気がありました。

やがて若い彼等も独立しました。が、その頃より世の中の景気が良くなり、大きな会社が次々と出来、若者が勤めというものに魅力を持ちはじめ、折角身につけた技術をあっさり捨てて、会社に転職していったのです。彼等の言分は、一人でこつこつ仕事するより、同世代の仲間達と一緒に働きたい、安定した収入を得たい等でした。

私の四十才代は、妻と母と三人で朝早くから夜遅くまで、問屋さんの注文をこなす毎日でした。昭和四十八年のドル・ショック、オイル・ショックによって主力であった海外輸出が打撃を受け、その独特の技法を駆使した時でもあり、又その後の列島改造ブームにのってインテリア分野に進出したころでもありました。個人的にも子育ての時期だった事もあり、出来るだけ沢山の品を作ること、収入を上げることに専念していました。忙しい、忙しいの繰り返しは、字のごとく心を亡ぼし、独立した当時のあの時の気持を失いかけていたのです。

昭和51年12月15日、通産大臣より、駿河竹千筋細工が伝統的工芸品に指定され、私も心より仕事の大切さを思い返し、22才の独立した時の気持になりました。初心にかえり、はじめからこの仕事をやり直す思いでした。又、業界全体がばらばらだったのが一 つにまとまり、当時の産業工芸センターでの研惨事業は、お互いの持っている技術を出し合い、研修に励みました。お互いの仕事の仕方等、本当に勉強になりました。

組合事業としての振輿計画事業を行ってきた現在、業界全体の技術の向上がみられ、又、展示会等によるPR活動で、広く消費者の方々に知っていただく様になりました。

十数年前には地元の方でさえ知らない人が多かったのに、皆で努力した結果と、行政をはじめとする関係の方々の御指導のたまものと深く感謝しています。そして、今後の問題はやはり後難者だと思います。今まで続いて来たこの仕事がここで絶えてはならないのです。現在、私の家では若者が見習いに居りますが、業界全体でははんとに少なく、存亡危磯意識に立ち、あらゆる施策を講じてゆく覚悟です。


伝統工芸士 黒田英一

竹千筋細工の魅力を皆さんに伝えたい職人さん

ひとことどうぞさわやか伝統工芸 せんすじ