「親孝行 するが第一 竹細工」と江戸時代より詠まれていたように、駿河(静岡県中部)の竹細工は、相当古くから親しまれてきました。
古来より駿河の地には、良質の苦竹、淡竹が豊富で、弥生時代の登呂遺跡からの出土品の中に竹製のザルが発見されるなど生活用具として、しっかりと根差していたことが伺えます。 (登呂遺跡(とろいせき)について)
江戸時代初期(1607年)大御所徳川家康公が、将軍職を退き駿府城に入城すると、大好きな鷹狩りのための餌箱を鷹匠同心たちに竹細工で作らせ、これが「駿河竹千筋細工」の始まりと言われています。 (徳川家康公について)
「駿図雑志」 によると、元和9年(1623年)3月8日、江戸城西の丸において催された花見の席で、天海大僧正が、昼寝をしたときの枕が、駿河名物の「竹細工篭枕」となっております。なお、徳川家康公は、元和2年(1616年)に亡くなっています。 (天海大僧正ついて)
この門、駿府城ではなく、江戸城、桜田門です。竹の枕が珍しかったんでしょうかね。時代劇では、木でできた堅そうな枕は、でてきますが、竹のってあまり出てきませんものね。
ぼくは、籐のまくらがお気に入りです。夏、気持ちいいですよね。
寛永年間(1630年代)には、既に府中七間町(静岡市葵区七間町)に竹細工の枕、虫かご、絵筆、花かご、硯箱を売る店があったと「駿河国新風土記」にも書かれています。当時竹細工は、武士の内職にもなっていました。
中でも虫かごが人気が高かったようで、俳人鬼貫(1661〜1738)が、「虫かごを買うて裾野に 向かいけり」と詠んでいます。
右側、静岡伊勢丹、クリスマスバージョンですね。
このあたり東海道、札の辻です。昔は、 町奉行により、政策や法令などの高札が出ていたそうです。今も賑やかで、11月初めの大道芸では、すごい盛り上がってました。
竹細工のお店もこの辺にあったのでしょうか。わいわい、賑やかだったんでしょうね。
ちなみに、駿河竹千筋細工の虫かごや花かご、今でも大人気ですよ。
このころ、江戸の武士たちの間で藤の編笠が流行していましたが、藤が高かったことからこの代用品として、駿府城代付草深同心、芹沢喜右観門、松井粂之進、日下部菊之進というものたちが、苦心研究の末、竹で編んだ笠を製造したところ、これが値段も安かった所から武士、町人を問わずあっと言う間に広まりました。
駿府城のほとり、北側、東草深町に三加番稲荷神社があります。
徳川家光のころから、駿府城には、城主ではなく、城代がいて、このお稲荷さんの場所には、加番(警備)の人が、住んでいたそうです。
笠を作っていた同心もこのあたりに住んでいたのでしょうか。
なんだか、わくわくしてきますね。(^O^)
そのころ10人ほどであった職人も40人以上にも増えたほどで、武士の内職であった「駿河竹細工」もこうして駿河の名産品となりました。
左画像〜府中名物竹細工しかし単なる竹細工が、.「駿河竹千筋細工」として今日のような精巧なものになったのは、天保年間のことです。
天保11年(1840年)岡崎の藩士、菅沼一我が、諸国行脚の途中、駿河の 「はなや」という宿屋に泊まった際、その宿屋の息子、清水猪兵衛に技術を教えました。清水猪兵衛は、山本安兵衛、佐藤吉右衛門とともに門弟を多数育て、今までより数段繊細な菓子器、虫篭、花器等を作り広めました。旧東海道、府中宿、七間町と人宿町の間、郵便局の前に、駿河竹千筋細工の碑があります。古い浮世絵の絵で、精巧な竹細工が描かれていますよ。はなやさん、このあたりだったんでしょうかね。
静岡の伝統工芸を紹介するときに欠かせないのが、静岡浅間神社。
「ふじのくに匠の技静岡県の伝統工芸品」ページです。
http://www.pref.shizuoka.jp/sangyou/sa-560/dentou_gaiyou.html「静岡県の多くの伝統工芸品のルーツは、江戸時代の1634年に三代将軍徳川家光が駿府(現在の静岡市)に浅間神社を造営したことに由来すると言われています。
全国から優秀な宮大工、左官、塗師、蒔絵師、彫り師などの職人が集められ、これらの人々が造営後も、気候風土に恵まれたこの地にとどまり、その技術を生かした工芸品を作り始め、今日に至っています」
社殿や門を、よく見ると、龍や様々な彫刻がありますよ。
日光東照宮みたいですよね。江戸時代初期から、170年後に火災があったようで
「文化元年(1804)から60年余の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されたのが現在の社殿群である。」そうです。
「静岡浅間神社 ご由緒」より
http://www.shizuokasengen.net/yuisho.html60年と言えば、親子孫3代ですね。
今、漆器、蒔絵、木工などが盛んな理由がわかります。
駿河竹千筋細工では、虫かごの木製の台とか、塗りで、この恩恵を受けていますよ。
明治6年(1873年)「駿河竹千筋細工」は、明治新政府の海外貿易政策により日本の特産品としてウィーン国際博覧会に出品され、竹ひごの繊細な雰囲気、妙技は西洋諸国の特産品を凌ぐ好評を博し、これを契機に多くの製品が海外に輸出されました。
その後、益々技術も洗練され、時代のニーズにも敏感に対応しながら昭和初期には、たばこ盆、菓子器、筆入れなどが総て漆によって塗られ国内、海外などで好評を博しました。
昭和40年頃には、静岡・清水には、約200件の竹職人がいたそうです。現在は、その約20分の一の10件ほどしか残っていません。
そのころまでは、静岡の竹細工は、アメリカなどに輸出されていましたが、ドルショックで、1ドルが360円から200円くらいになったときに大部分の職人はやめてしまったようです。
当時の職人は、輸出問屋さんの仕事を主にやっていました。その問屋さんがつぶれたので、職人も次々にやめてしまいました。昭和51年に伝統工芸品に指定されてからは、問屋さんに頼るだけでなく自分で商品開発して販売する職人も増えてきました。
静岡市は、昭和15年の静岡大火、20年の空襲で焼け、古い工芸品がなかなか残っていませんが数年前、京都の方から明治時代の「駿河竹千筋細工」を譲っていただきました。今より、さらに繊細な細工です。
昭和51年通産大 臣により伝統的工芸品に指定されています。
駿河竹千筋細工 |
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